下岡商会70年の歩み
history
ドキュメントサービスで未来をつくる
すべては青焼きから始まった(1951-1964)
下岡工業所の創業
下岡商会の歴史は、創業者である下岡卓一郎が青写真に出会ったことから始まった。
実家のある京都府でトンネル工事に従事していた卓一郎は、現場事務所で働いていた社員からの誘いで、山本商店(現ダイヤミック株式会社)に入社した。 1930年代後半に、名古屋市中区にある子会社の株式会社山本工業所に転籍すると、営業職として青写真業に携わることになった。
青写真とは図面などの複写に使う写真の一種であり、図形や文字が青地に白く出ることからそう呼ばれていた。 山本工業所で青写真業への知識や経験を積むと、卓一郎は自分の会社を持つために独立した。
1951(昭和26)年、卓一郎は名古屋市熱田区で下岡工業所を創業した。 取引先を持たない状況での独立だったため、創業当初は仕事を得られず資金不足に陥ったが、卓一郎は山本工業所で培った営業力によって徐々に取引先を増やしていった。 金融機関や取引先からの信用を得るために1953年に法人化し、下岡工業所は有限会社となった。
実家のある京都府でトンネル工事に従事していた卓一郎は、現場事務所で働いていた社員からの誘いで、山本商店(現ダイヤミック株式会社)に入社した。 1930年代後半に、名古屋市中区にある子会社の株式会社山本工業所に転籍すると、営業職として青写真業に携わることになった。
青写真とは図面などの複写に使う写真の一種であり、図形や文字が青地に白く出ることからそう呼ばれていた。 山本工業所で青写真業への知識や経験を積むと、卓一郎は自分の会社を持つために独立した。
1951(昭和26)年、卓一郎は名古屋市熱田区で下岡工業所を創業した。 取引先を持たない状況での独立だったため、創業当初は仕事を得られず資金不足に陥ったが、卓一郎は山本工業所で培った営業力によって徐々に取引先を増やしていった。 金融機関や取引先からの信用を得るために1953年に法人化し、下岡工業所は有限会社となった。
戦後復興と複写業の発展
1950年代前半の戦後復興期における日本では、複写は手書きもしくは青写真が一般的な技法だった。
青写真の焼付作業は職人的要素が強く、取り扱いに注意が必要な薬液や裁断機を使用していた。
それらの設備を社内に設置することは難しく、多くの企業は複写業務を外注業者に依頼していた。
戦後復興の中心であったインフラ整備を担う官公庁、土木建設業、製造業、運輸業、電力会社などでは多くの図面や書類を複写する必要があった。 発電所建設などインフラ関連企業と取引をしていた下岡工業所は、複写の需要増加に比例して事業規模を拡大していった。
戦後復興の中心であったインフラ整備を担う官公庁、土木建設業、製造業、運輸業、電力会社などでは多くの図面や書類を複写する必要があった。 発電所建設などインフラ関連企業と取引をしていた下岡工業所は、複写の需要増加に比例して事業規模を拡大していった。
名古屋青写真工業協同組合の発足
複写を扱う企業が全国的に増えた1958(昭和33)年、企業間の連携を深めるとともに、複写業界を代表して官公庁やメーカーに要望を伝えられる組織が必要になった。
それを受け、全国的な複写業の協同組合の結成を目指して、名古屋と大阪から集まった有志による会合が開催された。
翌年には関東、近畿、名古屋など全国から代表者が30人ほど集まり、「全日本青写真工業連合会」が発足した。
1985年に法人化し、「日本複写産業協同組合連合会」となった。
地方でも並行して協同組合を結成する動きがあった。 名古屋では、1953年に任意団体として「名古屋青写真工業組合」が活動を開始した。 1961年になると、資材の共同購入や共同作業場の設置の必要性から、中小企業等協同組合法に基づいた組合として「名古屋青写真工業協同組合」が発足した。 初代理事長には下岡卓一郎社長が就任した。下岡工業所は名古屋をはじめとする東海の複写業を牽引する企業として、組合の活動を支援した。
地方でも並行して協同組合を結成する動きがあった。 名古屋では、1953年に任意団体として「名古屋青写真工業組合」が活動を開始した。 1961年になると、資材の共同購入や共同作業場の設置の必要性から、中小企業等協同組合法に基づいた組合として「名古屋青写真工業協同組合」が発足した。 初代理事長には下岡卓一郎社長が就任した。下岡工業所は名古屋をはじめとする東海の複写業を牽引する企業として、組合の活動を支援した。
高度成長期を支えたドキュメントサービス
1960年代に入り日本が高度成長期を迎えると、社会のインフラ整備はますます進み、図面や書類の複写がより活発になった。
主な複写技法が白焼きと呼ばれるジアゾ式複写に変わったことで、作業効率が飛躍的に向上し、下岡工業所は大口発注にも対応できるようになった。
多くは納期の短い仕事だったため、日に複数回取引先を訪問することもあり、下岡工業所と取引先間の信頼関係は自然に強くなっていった。 それに伴い複写以外の仕事を依頼されるようになり、担当する事業範囲も広くなっていった。 幅広い業務を行うようになった下岡工業所は、高度成長期における多くの企業活動を支えた。
多くは納期の短い仕事だったため、日に複数回取引先を訪問することもあり、下岡工業所と取引先間の信頼関係は自然に強くなっていった。 それに伴い複写以外の仕事を依頼されるようになり、担当する事業範囲も広くなっていった。 幅広い業務を行うようになった下岡工業所は、高度成長期における多くの企業活動を支えた。
下岡商会の誕生
創業当初の主な事業は青写真の焼付のみだったが、取引先からの要請や時代の流れに合わせて、下岡工業所は幅広い事業内容を展開するようになった。
下岡卓一郎社長は当時の最新記録媒体であるマイクロフィルムにいち早く可能性を感じ、1950年代後半にマイクロフィルム事業に取り組んだ。
その後、マイクロフィルムの関連機材や物品の販売に注力するようになると、工業所という社名が業務の実態と合わなくなったため、1961(昭和36)年に下岡工業所を下岡商会へと改称した。 従来の複写部門は青写真部と名前を変えて存続した。
その後、マイクロフィルムの関連機材や物品の販売に注力するようになると、工業所という社名が業務の実態と合わなくなったため、1961(昭和36)年に下岡工業所を下岡商会へと改称した。 従来の複写部門は青写真部と名前を変えて存続した。
事業拡大と新分野への挑戦(1965-2021)
営業強化と新たな拠点の開設
1965(昭和40)年、下岡商会の大口取引先の一つが名古屋市から豊川市へ拠点を移転した。
それを受けて、取引先より集配を円滑に進めるために豊川市の近郊に出店するよう依頼を受けると、下岡商会は豊橋市に営業所を開設した。
豊橋営業所は下岡商会にとって初めての営業所であり、名古屋市外に商圏を広げるとともに東三河における重要な拠点となった。 競合他社が少なかったこともあり、製造業を中心に取引先を着実に増やしていった。
豊橋営業所は下岡商会にとって初めての営業所であり、名古屋市外に商圏を広げるとともに東三河における重要な拠点となった。 競合他社が少なかったこともあり、製造業を中心に取引先を着実に増やしていった。
JR高架下の駅西営業所
1975(昭和50)年、国鉄の担当者から新幹線高架下へ営業所を開設するよう依頼を受けた。
当時複数の複写業者が国鉄と取引をしていたが、依頼を受けたのは下岡商会のみだった。
高架下の1区画に駅西営業所を開設した当初は、国鉄の限られた部署とのみ取引をしていたが、1987年の国鉄分割民営化をきっかけにそれは一変した。
JR東海の関連業務を担うJR東海グループが立ち上がると、下岡商会はJR東海グループの子会社からも複写業務を任されるようになった。
増加した作業量に対応すべく、下岡商会は新たに駅西営業所分室を設置し、設備や人員の増強を図った。
高架下に営業所を持ったことでJR東海との信頼関係がより強固になり、JR東海グループの子会社や、JR東海と取引関係にある企業との取引も次第に増加していった。 その結果、JR東海グループは下岡商会における最大の取引先となった。
高架下に営業所を持ったことでJR東海との信頼関係がより強固になり、JR東海グループの子会社や、JR東海と取引関係にある企業との取引も次第に増加していった。 その結果、JR東海グループは下岡商会における最大の取引先となった。
最高売上高の達成
JR東海グループの発足による受注量の増加と、バブル崩壊に伴う景気対策を目的とするインフラ整備事業の増加によって、1993(平成5)年に下岡商会は最高売上高を達成した。
1995年、経営をより強化するため下岡卓一郎社長の息子である下岡寛が社長に就任した。 下岡寛新社長は社長就任以前から役員として経営に携わっており、社長交代は円滑に進んだ。 しかし、1990年代後半になると景気対策事業のピークが過ぎ、売り上げが少しずつ減少した。 さらに、デジタルデータの普及によって、紙媒体の需要が減少傾向をたどった。 そこで、従来の複写業からの脱却を目指し、全社を挙げてデジタル分野への本格的な進出を開始した。
1995年、経営をより強化するため下岡卓一郎社長の息子である下岡寛が社長に就任した。 下岡寛新社長は社長就任以前から役員として経営に携わっており、社長交代は円滑に進んだ。 しかし、1990年代後半になると景気対策事業のピークが過ぎ、売り上げが少しずつ減少した。 さらに、デジタルデータの普及によって、紙媒体の需要が減少傾向をたどった。 そこで、従来の複写業からの脱却を目指し、全社を挙げてデジタル分野への本格的な進出を開始した。
デジタルへの進出
1980年代後半にワードプロセッサが本格的に普及すると、手書きやタイプライターで作成されていた文書は、徐々にワードプロセッサに置き換わった。
取引先からの需要もあり、下岡商会は東京の同業他社への視察を行い、知識を得てワードプロセッサ専用機の一つである富士通のOASYSを導入した。
主に紙文書を作成するために使われたが、下岡商会にとってデジタル化の第一歩となった。
デジタル知識が豊富な人材獲得をきっかけに、2000年代初頭から本格的なデジタルへの進出を開始すると、豊橋営業所を中心に電子納品支援業務の営業活動を行った。 データ作成や修正など、電子納品を主体とするデジタル関連業務を増やし、時代に即した事業内容への転換を図った。
現在では、紙資料などのスキャニング、文書資料や図面、デザインのデータ作成や加工、各種のデータ出力など、物品販売を除いてほとんどのサービスでデジタルデータを取り扱っている。
デジタル知識が豊富な人材獲得をきっかけに、2000年代初頭から本格的なデジタルへの進出を開始すると、豊橋営業所を中心に電子納品支援業務の営業活動を行った。 データ作成や修正など、電子納品を主体とするデジタル関連業務を増やし、時代に即した事業内容への転換を図った。
現在では、紙資料などのスキャニング、文書資料や図面、デザインのデータ作成や加工、各種のデータ出力など、物品販売を除いてほとんどのサービスでデジタルデータを取り扱っている。
創業70周年のその先へ
2021(令和3)年11月、下岡商会は創業70周年を迎えた。
青写真業から始まった下岡商会だが、近年のデジタル化の流れによって、複写や印刷事業に求められる内容が大きく変わりつつある。
そこで下岡商会は、既存事業の強化と新規事業の開発を並行して進めている。
既存事業では、A1カラーブックスキャナや、より高性能なオンデマンド機を導入し、一般的なスキャナやプリンタとの差別化によってスキャニング部門やオンデマンド印刷部門の売り上げ増加を目指している。 さらに、プリンタを増強し、より大量の印刷にも対応できる環境を整備する。 また、従来の複写業に留まらない新たな需要の掘り起こしとして、現在、社内の資料やデジタルデータを整理し業務の効率化を支援する新規事業を企画している。
70年の歴史のなかで培ってきた技術や知見を生かし、下岡商会は今後も時代に即した方法で企業の業務効率化に貢献していく。
既存事業では、A1カラーブックスキャナや、より高性能なオンデマンド機を導入し、一般的なスキャナやプリンタとの差別化によってスキャニング部門やオンデマンド印刷部門の売り上げ増加を目指している。 さらに、プリンタを増強し、より大量の印刷にも対応できる環境を整備する。 また、従来の複写業に留まらない新たな需要の掘り起こしとして、現在、社内の資料やデジタルデータを整理し業務の効率化を支援する新規事業を企画している。
70年の歴史のなかで培ってきた技術や知見を生かし、下岡商会は今後も時代に即した方法で企業の業務効率化に貢献していく。